母の教育方針は「ググれ」だった

2000年代の頃、私は少し変わった教育を受けていました。
家に父はおらず、代わりに母が私の“先生”。
わからないことがあると質問すると、返ってくる答えは決まって「ググれ」。
――え、それが教育方針ですか!? と思うかもしれませんが、当時の私は半ば強制的に検索エンジンと付き合わされました。
まだ紙の辞書や百科事典が当たり前の時代に、母から“Googleに聞け”と叩き込まれた結果、宿題の調べ物からゲームの裏技まで、検索で解決するクセが自然と身についたのです。
…とはいえ「チェーンメール」や「ワンクリック詐欺」といった怪しい文化にも直面しました。
(おい未成年!とツッコミたくなる体験もありましたが、まあ時効ということで)
今振り返ると、あれこそが私にとっての“ネットリテラシー授業”の第一歩だったのかもしれません。
ギガスクール構想は「配ること」が目的化している?
さて現代。日本では「ギガスクール構想」の名のもとに、全国の小中学生へタブレット端末が配布されました。
授業ではノートを取る代わりにタブレットへ入力、宿題もオンラインで提出、といった光景が当たり前になりつつあります。
表向きは「情報化社会に対応するため」ですが、実際の現場では「とにかくタブレットを使わせること」が目的化しているケースも見られます。
手書きの効能は科学で証明されている

ここで一つ、雑学を。
手で文字を書くことは、脳科学的に「記憶の定着」に強い効果があるとされています。
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ノルウェー科学技術大学の研究では、手書きでノートを取った学生は、タイピング入力の学生よりも内容の理解度・記憶保持率が高いという結果が出ています。
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手書きでは「視覚」「運動」「思考」が同時に働くため、脳が情報を“深く処理”するのです。
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逆にタイピングは「ただ打ち込む作業」になりがちで、浅い処理に留まる可能性があります。
学びの基礎段階において“書く力”を軽視するのは、やはり危険でしょう。
産廃タブレットでパソコン嫌い世代を育ててどうする

さらに忘れてはいけないのが「産廃タブレット問題」。
ギガスクールで配られた端末は、価格優先で選ばれたせいか、性能がギリギリ。
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電源を入れてから立ち上がるまでに、授業が半分終わる
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アプリを開こうとしたら固まって、先生がリセット講座を開講
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ストレージがパンパンで「プリントは削除してね」と指導される始末
――これ、勉強どころじゃないですよね。
結局「やっぱりパソコンは使いにくい」という印象だけが子どもに残り、未来のIT人材どころかパソコン嫌い世代の量産になってしまう。
一部の自治体ではiPadが配られているそうで、サクサク動いてアプリも豊富。……正直、羨ましい。
教育の地域格差が、まさか端末性能でこんなに露骨に出るとは思いませんでした。
本当に必要なのは「バランス教育」

問題は、アナログとデジタルを“どちらか一方”に振り切ってしまうことです。
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覚える・理解する部分は手書き(アナログ)
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調べる・共有する部分はデジタル
この切り分けこそが、本来あるべき教育の姿でしょう。
鉛筆もタブレットも、どちらも学びの道具。偏れば「力の偏り」を生んでしまいます。
まとめと問いかけ
ギガスクール構想そのものは悪ではありません。
しかし「タブレット配布」に偏りすぎると、子どもたちは**“書いて覚える力”を失い、“ネットを正しく使う力”も育たない**という二重のリスクを背負うことになります。
私が母から教わった「ググれ」というシンプルな方針。
その裏には「自分で調べ、自分で考える力を持ちなさい」という教育が隠れていたのだと思います。
あなたなら、子どもにどんな“情報教育”を与えたいですか?