
朝、気がつくとスマホを握っている。
特に見たいものがあるわけじゃない。通知をチェックして、Xを開いて、ニュースを流し見して、気づけば30分。
「今日も何かを得たようで、何も得ていない」——そんな感覚だけが残る。
たまに思うのだ。
「もう全部やめて、ガラケーに戻りたい」 と。
情報に追われる日々
SNSが悪いわけじゃない。
ただ、流れてくる情報の速さに心がついていけないときがある。
誰かの成功、誰かの不安、誰かの怒り——それらが1分ごとに流れてくる。
まるで小石を投げ込まれ続ける池のように、心が波立つ。
通知を切っても、手が勝手に動く。
スマホを開くのはもう「意思」じゃなくて「反射」だ。
そのたびに、「これ、俺が使ってるんじゃなくて、使われてるんじゃないか?」と思う。
ガラケーという静寂の国
だからこそ思い出す。
あの頃のガラケー。
着信音が鳴るまで“静か”だったあの時間。
メールは来るまで待つものだったし、誰かとつながっていない時間が当たり前だった。
あれが、本当のデジタルデトックスだったのかもしれない。
通知も、トレンドも、アルゴリズムもなかった。
代わりに、少しの退屈と、穏やかな安心があった。
でも、もう戻れない
現実は厳しい。
3Gのサービスは終わり、あの頃の“ガラケー”はもう動かない。
いま残っているのは「ガラホ」と呼ばれる4G版の生き残りだけ。
LINEも最新機能が使えず、アプリもほとんどない。
中古市場で懐かしい機種を見つけても、“圏外”という文字が現実を突きつけてくる。
まるで、時代に取り残された博物館の展示品を眺めているようだ。
“逃げ場”としてのガラケーは、もう存在しない。
現代における「ガラケー的生き方」
それでも、完全に諦める必要はないと思う。
“ガラケーに戻る”ことはできなくても、“ガラケーのように生きる”ことはできる。
便利さを少し手放すと、静けさが戻ってくる。
そしてその静けさの中で、ふと「何もしない時間」が心地よく感じられる。
結び:つながらない勇気
テクノロジーは人をつなげるために進化してきた。
でも、「つながらないこと」もまた、ひとつの幸せの形だと思う。
たまにはスマホを置いて、画面のない時間を過ごしてみる。
その先にあるのは、懐かしいほど“普通”の一日かもしれない。