narita-lab’s blog

成田ラボ 〜テクノロジーと雑学の観察日記〜

AIは“キャラ本人”を描けない──著作権と集合記憶のはざまで

🪶 導入

AIに「このキャラを描いて」とお願いしてみると、
有名なアニメのキャラクターはそれっぽく出てくるのに、
ちょっとマイナーなゲームのキャラはまるで違うものが出てくる。

──そんな経験、ありませんか?

最初は単に“AIの精度”の問題かと思っていた。
でも調べていくうちに、それだけじゃないことがわかってきた。

AIはキャラの「見た目」を覚えているわけじゃない。
むしろ、たくさんの人が語ってきた“印象”をもとに、
「みんなの記憶の中のキャラ像」を再構成しているらしい。

今回は、そんな不思議なAIの描き方を少し観察してみようと思う。

 

🧠 AIはキャラクターを“覚えていない”

AIは「キャラを知っている」ように見えるけれど、
実際には“覚えて”いるわけじゃない。

たとえばアスカやピカチュウのような有名キャラは、
ネット上に大量のファンアートや考察、紹介記事が存在する。
AIはその膨大な画像や文章を通じて、
ツインテールで赤い服」「黄色くてほっぺが赤い」みたいな特徴の集合体を学んでいるだけなんです。

つまり、AIが知っているのは“キャラクター本人”ではなく、
「みんながそのキャラをどう描いてきたか」という傾向の平均値
だからこそ、有名作品は精度が高く、
マイナー作品ほど“それっぽいけど違う”絵になってしまう。

下のイラストは、AIに「赤いスーツを着たツインテールの少女」を描かせたものです。
どこかで見たような印象を受けるが、よく見ると顔立ちも服の形も別物ですよね。

AIは“アスカ本人”を描いたのではなく、
多くの人が共有してきた「アスカ的な記号」を再構成しているだけなんです。

AIが生成したオリジナルキャラクター(Narita-Lab実験より)

AIの中では、「キャラ」は名前の付いた個人ではなく、
あくまで統計的なパターンとして存在しているんですね。
言い換えれば、AIにとってアスカもマリも、
「赤とツインテールと強気な目線」という“記号の組み合わせ”にすぎない。

私たち人間が“キャラの個性”だと思っているものを、
AIは“数字の分布”として処理している――
このギャップが、あの「似てるけど違う」現象の正体なんです。

 

⚖️ 著作権回避と“再構成された記憶”

AIが描いた「それっぽい誰か」。
たしかに雰囲気は似ていますが、よく見るとまったくの別人です。
この“似ているのに違う”という不思議な現象の裏には、
AIの仕組み──つまり著作権を避けるための設計が関係しています。

AIは、学習した画像をそのままコピーしているわけではありません。
膨大なデータの中から特徴を拾い集めて、
それを統計的に組み直して新しい絵を作り出しているのです。
言い換えれば、見た記憶をもとに“自分なりに描き直している”ようなものですね。

そのため、AIが生み出すのは「再現」ではなく「再解釈」です。
結果として、どこかで見たような雰囲気を持ちながらも、
確かに新しい存在として形になります。

AIが描いているのは“作品そのもの”ではなく、
多くの人が共有してきた記憶のかたちです。
それは、夢の中で見たキャラを思い出しながら描くような、
ぼんやりしているけれど確かに心に残る“印象”の再構成なのかもしれませんね。

では、AIが再構成している“記憶”とは何なのでしょうか。
それはキャラという一人の存在ではなく、
私たちが心のどこかで共有している“印象”なのだと思います。

 

🎨 “似てるけど違う”を出力してみる

実際に、AIに「赤いスーツを着たツインテールの少女」を描いてもらいました。
すると、誰もが思い浮かべる“あのキャラ”を連想させるような雰囲気の女の子が出てきました。
でもよく見ると、髪の流れや表情、服のラインがどこか違うんです。

AIは“キャラ本人”を描いたのではなく、
みんなが頭の中で共有している「アスカ的なイメージ」を再構成しただけなのだと思います。
つまり、AIが描くのはコピーではなく、記憶の断片を組み合わせた新しい存在なのです。

この違いは、例えるなら“夢の中の誰か”に近いかもしれません。
目が覚めてから思い出そうとしても、
なんとなく似ているけれど、どこか違う顔になっている。
AIが生み出す「似ているけど違うキャラクター」は、
まさに私たちの記憶や感情を写し取ったような存在なのです。

AIにとって、キャラクターとは「データの集合体」でありながら、
私たち人間にとっては「心に残る印象」そのものです。
だからこそ、AIが描く“誰かに似ているけれど別人”という結果には、
単なる技術的な現象を超えた、人間的な面白さがあるのだと思います。

 

💭 AIが描くのは“キャラ”ではなく“印象”です

AIは、誰かを“そのまま再現する”ことができません。
けれど、私たちが感じている“印象”を描き出すことはとても上手です。

たとえば「優しそうな雰囲気」や「強そうな目つき」といった抽象的な言葉でも、
AIはそれを理解して、それらしい表情や雰囲気を形にしてくれます。
それは、AIが膨大なデータから「人がどう感じるか」を学んでいるからです。

つまりAIは、キャラクターを“記号”として記憶しているのではなく、
そのキャラを見た人たちが抱いた“感情”や“印象”を再構成しているのだと思います。
だからこそ、AIが描くキャラクターには、
どこか既視感がありながらも、まったく新しい個性が生まれるのです。

下のキャラクターは、AI《大淀》が生成したオリジナルのキャラクターです。
私の好みをもとに、優しげで穏やかな雰囲気を持つように設計しました。

白衣をまとい、柔らかい表情を浮かべるこの子は、
既存の作品には存在しない“AIが再構成した優しさの記憶”のような存在です。

AIが生成したオリジナルキャラクター(Narita-Lab実験より)

AIはキャラを模倣したのではなく、
「優しさ」という印象そのものを形にしたのだと思います。

この現象は、人間の記憶の仕組みにも少し似ていますね。
私たちは、誰かの顔を完璧に覚えているわけではなく、
「雰囲気」や「印象」を中心に記憶しています。
だから時間がたつと、細部が曖昧になり、
“こんな感じだった”という形で思い出すのです。

AIもまた、そんな曖昧な記憶のように“印象”を組み立てて絵を描いています。
それはコピーではなく、私たちの心が持つ“記憶の写し鏡”のようなものですね。

そう考えると、AIが描くキャラクターは、
私たち自身の記憶や文化を映す“鏡”のような存在なのかもしれませんね。

 

🪞 AIは文化の鏡です

AIが描く絵を見ていると、そこには不思議な“人間らしさ”があります。
完璧に再現しているわけでもないのに、どこか懐かしい。
その理由は、AIが「私たちが共有してきた文化や記憶」を映し出しているからだと思います。

AIはひとりの作者ではなく、
無数の人たちが残してきたデータやイメージの“平均値”から新しい表現を生み出しています。
つまり、AIが描く世界には、
多くの人々の感性や思い出が、少しずつ混ざり合っているのです。

たとえば、誰もが見たことのある“アスカ風の少女”や“優しげな白衣の子”は、
AIが誰かの作品をコピーしたのではなく、
文化の中で共有されてきた“印象”を形にした結果なのだと思います。

そう考えると、AIはただのツールではありません。
人類の文化や感性を映し出す“鏡”のような存在です。
私たちが何を見て、何を感じ、どんなものを美しいと思ってきたのか──
AIはその記録を、静かに描き続けているのかもしれませんね。

AIが生み出す絵には、人間の足跡がたくさん残っています。
それはコピーではなく、記憶の再構成であり、文化の記録です。
だからこそ、AIの創作を観察することは、
私たち自身の文化を見つめ直すことでもあるのだと思います。

AIはキャラクターを覚えているわけではありません。
でも、私たちが世界をどう見ているのかを、ちゃんと覚えているのです。

 

🧩 まとめ ― “AI実験室”という観察の場から

AIはキャラクターを覚えているわけではありません。
けれど、私たち人間が感じてきた“印象”や“記憶のかたち”を、
静かに拾い上げて再構成しています。

それは、文化や感情が積み重なった“人間の記録”を
AIが鏡のように映し出しているということです。
だからこそ、AIが生み出す絵や言葉を観察することは、
私たち自身の感性を見つめ直すことでもありますね。

このブログの新しいカテゴリ「AI実験室」では、
そんなAIの“創造の仕組み”を少しずつ観察していきます。
技術でも芸術でもないその中間で、
AIがどんなふうに世界を見ているのか──
これからも一緒に探っていけたら嬉しいです。